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2018.2.1
20年目の《ポプ弁 》愛の讃歌
「やっぱり、ポプラが1番だね。とにかくご飯が美味いんだよ!弁当の容器にはおかずだけ入っていて、炊きたて熱々をその場で詰めてくれるんだよ。盛り盛りに。ふりかけも付いてるんだぜ。あれだけで丼飯いけちゃうよ」
「美味しんぼ」の「飯の友
対決回」の文化部員か、はたまた「めしばな刑事 タチバナ」かっていう台詞を僕に語りかける彼は広島出身のチャリダー。仮にA君としようか。
時は20年前。場所は山形県の日本海沿いにある遊佐町の道の駅「ふらっと 鳥海」の裏山にある東屋。
そこで僕と彼は2週間、奇妙な共同生活を送っていた。もちろん、不法占拠。
なんでそんな事になったかというと。
当時、マウンテンバイクで東北を旅していた僕は鳥海山の麓の下り坂で、当時流行っていた映画「タイタニック」の名物シーンを真似て手放し運転していて転倒。
右腿から尻にかけて、皮がベロベロに向けて血まみれになり、半泣きでなんとかチャリとキャンプ道具を引きずってこの道の駅にたどり着いた。
医者にいくのではなく、この近くの温泉で湯治して傷を癒そうと思ったからという救いようの無い馬鹿だった。
傷口はもちろん、身体中が痛くてテントは持っていたけど、張る元気も場所も見つからず、血まみれの短パンも恥ずかしくて、人目につかない裏山に入っていった。(病院行けよ)
整備された林道に立っていた妙に立派な東屋を見つけて近寄るとボボボッとジェット機のエンジン音のような音がした。中を覗くと同い年くらいのスポーツ刈りのメガネの男がいて、ガソリンストーブで食事を作っているようだった。
こちらに気付くと「やあ、こんにちは」と目を細めながら和かに挨拶してきた。
使いこまれた鍋や、敷きっぱなしのマットに寝袋、キャンプ道具、乾かしてあるTシャツ。彼はそこに住んでいるようだった。
中は8畳程はあるだろうか、壁側にシングルベットくらいの幅の板の間のベンチがあり、若干薄暗かったけど、清潔で木の匂いがした。
四方の戸を閉める事も出来る豪華版東屋。
こいつは素敵だ。いい家だ。住みたいな。
カクカクシカジカと彼に経緯を話すと、こちらの意図を汲んでくれたのか、
「ここなら、大丈夫!一緒に使おうよ」と人懐っこい笑顔で言ってくれた。(お前のじゃないだろ)
和かな牢名主。かれこれ2.3年は住んでいるのかと思いきや一週間前かららしい。
聞けば、彼もチャリダー。広島から日本海に出て北上。山形まで来て、この近くに自転車を駐めていたら本体だけ盗まれたらしい。
貴重品は持ち歩いていて、帰ると自転車に付いていたキャンプ道具、生活道具は一式その場に残してあった。
情け深い自転車泥棒もいたもんだ。
財布はあるのだから、諦めて広島に帰る選択もあったろうに、それはせず旅行保険に入っていた自転車の保険金の入金を待ち、新車を購入して広島まで漕いで帰るつもりでいるという。
彼もこちらとどっこいどっこいの馬鹿だった。
境遇のせいか、馬鹿同士のせいか、妙に馬が合い、東屋での共同生活は快適で楽しかった。
食事は各々のペースで作って食べる。
東屋は広かったから、お互いの空間とリズムは尊重して距離を保ちながらも
一緒に温泉に行ったり、夜は空き缶で作った蝋燭ランタン灯して本を交換して読んだり、お互いの身の上話をしたり、旅の情報交換したりした。
時には荷物を東屋に置いたまんまで、2人して電車で酒田のキャンプ用品店にガスカートリッジ買いに行ったりと好き放題していた。
色んな話をしたと思う。けど、全然思い出せない。唯一、20年経った今も鮮明に覚えているのが、A君の語る「ポプ弁」への熱い想いだった。
「とみー君、西に西に行くとね。ポプラが増えていくからね。絶対食べてね!おかずなんか無くていいからね、ご飯だよ!炊きたてだよ!旨いよ!」
「あー食べたいなポプラの弁当、広島帰ったら食べよう」
インスタントラーメンすすりながら、恍惚とした表情で語る彼の顔を思い出す。
当時、関東にはポプラは無かったと思う。彼に聞くまでそんなローカルコンビニチェーン知らなかった。
そんなに旨いなら広島行って食べなきゃ!そう思った。
でも、A君との裏山の東屋での共同生活は突然終わりを告げる。
近くのコンビニに2人で買い出しに行き、帰ると東屋の壁という壁に「退去勧告」のビラが貼ってあったのだ。どうやら不法占拠の旅人2人の所業がお上の耳に入ったらしい。
僕は湯治のおかげですっかり傷も完治してたし、A君も保険金の入金も近く、それまで他でテント張るなりどうにでもなるみたいだった。
住みなれた仮の我が家とルームメイトに別れを告げて、僕はまた西に向かって自転車を漕ぎ出していた。
「今度会う時はポプラの弁当一緒に食べよう!」
そんな約束をした
覚えはない
完
あれから何年か経ち、都内でバイトしてる時、進出してきたポプラに出くわし、ポプ弁を食べてみた。
本当だ。A君の言う通りだ。旨いよ。白米とふりかけだけでいけるよ。
そう。僕はあの後、広島まで行く事は無かった。
新潟まで来たものの、川沿いにテントを張り、新潟競馬場に通い詰め、有り金を注ぎ込んで大負けし、千葉のばーちゃんにコレクトコールしたら「宅急便と高速バス代出してやるから、自転車と荷物送り返して帰っておいで」と言われ。間髪入れず「うん」と言い、のこのこと帰ってきたのだから。
20年の月日が流れ、相棒の自転車は車になった。
野宿は車中泊になった。
でも、まだ懲りずに、飽きずに旅をしている。
(記事中の写真は一昨年、再訪した時の写真。過ぎ去った月日のせいかやっぱり少し古ボケていた。)
西に西に、車を走らせるたびに、広島に来るたびに彼と過ごした日々と、ポプラの弁当を思い出し無性に食べたくなる。
A君の言いつけ通り、ご飯だけ買って、ふりかけや唐揚げ、スーパーの焼き豚を分厚く切っただけの粗末なおかずで、ワシワシと白米を食べる。
旨いんだこれが。
A君、今も広島に暮らしてるんだろうか?
ポプ弁、今も食ってるんだろうか。
もし、再会出来たら、ポプ弁で乾杯しようと思う。
「美味しんぼ」の「飯の友
対決回」の文化部員か、はたまた「めしばな刑事 タチバナ」かっていう台詞を僕に語りかける彼は広島出身のチャリダー。仮にA君としようか。
時は20年前。場所は山形県の日本海沿いにある遊佐町の道の駅「ふらっと 鳥海」の裏山にある東屋。
そこで僕と彼は2週間、奇妙な共同生活を送っていた。もちろん、不法占拠。
なんでそんな事になったかというと。
当時、マウンテンバイクで東北を旅していた僕は鳥海山の麓の下り坂で、当時流行っていた映画「タイタニック」の名物シーンを真似て手放し運転していて転倒。
右腿から尻にかけて、皮がベロベロに向けて血まみれになり、半泣きでなんとかチャリとキャンプ道具を引きずってこの道の駅にたどり着いた。
医者にいくのではなく、この近くの温泉で湯治して傷を癒そうと思ったからという救いようの無い馬鹿だった。
傷口はもちろん、身体中が痛くてテントは持っていたけど、張る元気も場所も見つからず、血まみれの短パンも恥ずかしくて、人目につかない裏山に入っていった。(病院行けよ)
整備された林道に立っていた妙に立派な東屋を見つけて近寄るとボボボッとジェット機のエンジン音のような音がした。中を覗くと同い年くらいのスポーツ刈りのメガネの男がいて、ガソリンストーブで食事を作っているようだった。
こちらに気付くと「やあ、こんにちは」と目を細めながら和かに挨拶してきた。
使いこまれた鍋や、敷きっぱなしのマットに寝袋、キャンプ道具、乾かしてあるTシャツ。彼はそこに住んでいるようだった。
中は8畳程はあるだろうか、壁側にシングルベットくらいの幅の板の間のベンチがあり、若干薄暗かったけど、清潔で木の匂いがした。
四方の戸を閉める事も出来る豪華版東屋。
こいつは素敵だ。いい家だ。住みたいな。
カクカクシカジカと彼に経緯を話すと、こちらの意図を汲んでくれたのか、
「ここなら、大丈夫!一緒に使おうよ」と人懐っこい笑顔で言ってくれた。(お前のじゃないだろ)
和かな牢名主。かれこれ2.3年は住んでいるのかと思いきや一週間前かららしい。
聞けば、彼もチャリダー。広島から日本海に出て北上。山形まで来て、この近くに自転車を駐めていたら本体だけ盗まれたらしい。
貴重品は持ち歩いていて、帰ると自転車に付いていたキャンプ道具、生活道具は一式その場に残してあった。
情け深い自転車泥棒もいたもんだ。
財布はあるのだから、諦めて広島に帰る選択もあったろうに、それはせず旅行保険に入っていた自転車の保険金の入金を待ち、新車を購入して広島まで漕いで帰るつもりでいるという。
彼もこちらとどっこいどっこいの馬鹿だった。
境遇のせいか、馬鹿同士のせいか、妙に馬が合い、東屋での共同生活は快適で楽しかった。
食事は各々のペースで作って食べる。
東屋は広かったから、お互いの空間とリズムは尊重して距離を保ちながらも
一緒に温泉に行ったり、夜は空き缶で作った蝋燭ランタン灯して本を交換して読んだり、お互いの身の上話をしたり、旅の情報交換したりした。
時には荷物を東屋に置いたまんまで、2人して電車で酒田のキャンプ用品店にガスカートリッジ買いに行ったりと好き放題していた。
色んな話をしたと思う。けど、全然思い出せない。唯一、20年経った今も鮮明に覚えているのが、A君の語る「ポプ弁」への熱い想いだった。
「とみー君、西に西に行くとね。ポプラが増えていくからね。絶対食べてね!おかずなんか無くていいからね、ご飯だよ!炊きたてだよ!旨いよ!」
「あー食べたいなポプラの弁当、広島帰ったら食べよう」
インスタントラーメンすすりながら、恍惚とした表情で語る彼の顔を思い出す。
当時、関東にはポプラは無かったと思う。彼に聞くまでそんなローカルコンビニチェーン知らなかった。
そんなに旨いなら広島行って食べなきゃ!そう思った。
でも、A君との裏山の東屋での共同生活は突然終わりを告げる。
近くのコンビニに2人で買い出しに行き、帰ると東屋の壁という壁に「退去勧告」のビラが貼ってあったのだ。どうやら不法占拠の旅人2人の所業がお上の耳に入ったらしい。
僕は湯治のおかげですっかり傷も完治してたし、A君も保険金の入金も近く、それまで他でテント張るなりどうにでもなるみたいだった。
住みなれた仮の我が家とルームメイトに別れを告げて、僕はまた西に向かって自転車を漕ぎ出していた。
「今度会う時はポプラの弁当一緒に食べよう!」
そんな約束をした
覚えはない
完
あれから何年か経ち、都内でバイトしてる時、進出してきたポプラに出くわし、ポプ弁を食べてみた。
本当だ。A君の言う通りだ。旨いよ。白米とふりかけだけでいけるよ。
そう。僕はあの後、広島まで行く事は無かった。
新潟まで来たものの、川沿いにテントを張り、新潟競馬場に通い詰め、有り金を注ぎ込んで大負けし、千葉のばーちゃんにコレクトコールしたら「宅急便と高速バス代出してやるから、自転車と荷物送り返して帰っておいで」と言われ。間髪入れず「うん」と言い、のこのこと帰ってきたのだから。
20年の月日が流れ、相棒の自転車は車になった。
野宿は車中泊になった。
でも、まだ懲りずに、飽きずに旅をしている。
(記事中の写真は一昨年、再訪した時の写真。過ぎ去った月日のせいかやっぱり少し古ボケていた。)
西に西に、車を走らせるたびに、広島に来るたびに彼と過ごした日々と、ポプラの弁当を思い出し無性に食べたくなる。
A君の言いつけ通り、ご飯だけ買って、ふりかけや唐揚げ、スーパーの焼き豚を分厚く切っただけの粗末なおかずで、ワシワシと白米を食べる。
旨いんだこれが。
A君、今も広島に暮らしてるんだろうか?
ポプ弁、今も食ってるんだろうか。
もし、再会出来たら、ポプ弁で乾杯しようと思う。
9:39 | 店主 | その他